子供のころ住んでた家は平屋の小さな家でした。
私が、家というものに興味があったのは、物心ついた頃からです。
なぜか分からないけど家というものに執着心があったんですかね(笑)
新聞広告に家の間取りの載ったチラシがよく入っていましたら、これには必ず目を通して、こんなだったらいいな、ここはこんな風なら理想の間取りになるんだけどなぁ、なんて空想したものです。
あれから随分と年を重ねて、半世紀以上!
今に至る・・・
そんなこんなで、私がどんな人かが知りたい方は、以下の記事を読んでいただいても、なんとなくこんな人かなってことが想像できると思います。
注:画像はすべてイメージで実写真ではありません。
興味深い間取りの平家と海で潮干狩り
私の家族は、父・母・姉2人と私の5人家族でした。
小さい時に住んでいた家のことは、今でもぼおぉっと覚えています。
こじんまりしてたけど、不思議なお部屋があったり、食事する部屋が掘りごたつ風で変わっていたり、今思えば、とっても機能的なおうちだったようです。
小さい頃から家というものに興味深々です。
あんな間取りいいな、こんなおうちだったら素敵だな~、なんてよく妄想したものです。
五人家族の、ごく普通の家庭に生まれたのは、もう、半世紀以上も前のことで、その頃は普通というよりも、普通より貧乏だったのかもしれません。(汗)
昔は貧乏な家が多かったです。
父母が出かけて姉しかいなくて、腹がすいたって言うと、姉がお砂糖は甘いよ、お砂糖を食べるといい、と言って砂糖をなめたりしていました。
その頃は白いご飯にちょっとだけしょうゆをかけて、しょうゆごはんにして食べると美味しかったものです。
私がこの世に生まれる前から中学生になるころまでは、ちょうど高度経済成長期*のころでした。冷蔵庫やテレビ、洗濯機が一般家庭に普及していく頃です。
※高度経済成長期=1955年~1973年ころ。実質経済成長率で年率10%~20%の経済成長をしていた時期。
ところで、私が大人になるまでに、4回引っ越しをしています。
一番最初の家は、私が生まれて保育園に上がる数えで3歳までで、物心もついていないな~んにも分からない時だったので、全く覚えていません。ぼォっと覚えているのは、二番目の家からです。
その家から、歩いて1分もかからないところに、海が広がっていました。
夏になると、家族でバケツとスコップを持って、潮干狩りに行きました。
近所の人や団地住まいの人も潮干狩りに来ていて、人ひとであふれかえっていました。
昼過ぎから出かけて夕方まで、潮の引いた浅瀬であさりのある場所を探したり、海水で水たまりを作ったり、砂浜で遊んだり、そうしてバケツいっぱいあさりをとって帰ったものです。
それも今はもう昔の話で、今ではその海であさりが取れなくなってしまっています。
一時、なぜか海に生活排水を流したりしていたので、そのせいもあり潮干狩りに行く人もいなくなりました。高度経済成長の影響でしょう。詳しくは分かりません。
今は、表面上はきれいな海に変えっていますが、貝の姿はないようです。
その家は、まわりに家がなくて、一軒家でした。
家の四方にはぐるりと、田んぼと塩田と、海に行く道と、小さなため池がありました。
※塩田=海水を日光で蒸発させて、塩の原料を作るための土地
ぽつんと一軒家、そこが私の家の始まりです。
子供の頃の家は平屋建ての間取り
平屋の一軒家だけど、見栄えのいい家でした。
というのは、家の周りに生垣(いけがき)があったからです。
緑の生垣があるだけで、しょぼい家でもなんとなく立派に見えるものなんですね。
平屋で小さな家でしたが、家の周りを生垣で囲っていたので、たたずまいが立派に見えたものです。
生垣は、母が植えたものですが、年数がたって、青々しく立派に育ち、保育園の私の背丈を超えるくらいにはなっていました。
生垣の内側の左手には、猫の額ほどの小さな花壇があって、石で花壇をぐるりときれいに囲って、花壇と道の区別をつけていました。
花壇には、秋はコスモスが咲き、春にはヒャクニチソウが黄土色の花を咲かせ、とってもきれいだったのを覚えています。しあわせ者です^^
花を植えたりするのは、気持に余裕があったからなのでしょう。
お金はなくても、そんな余裕があって、幸せだったと思います。
お花があるなんて、なんていいお家なんだろう。なんてね今はそう思います。
父さん母さん幸せをありがとう~♪ルンルン
1、小学生まで住んでいた家の間取り
そこは、大きな道から横に入って、それからまーっすぐに海の方にのびた一本道を歩いて行った先のどんずまりにあった一軒家です。
道の先は行き止まりで、海に出るための堤防にのぼる階段がありました。
小さな平屋建ての家でした。
海に出る堤防につづく道の横にある平屋です。
母が植えた生垣は、道に沿って玄関側に植わっていました。
玄関は、生垣の切れ目から入った先にまっすぐのところにあります。あぜ道というのでしょうか、人の通ったあとにできる草が生えていない道ができていて、それは真っ直ぐ玄関と裏手に続く右側と花壇の横に左にまがって続いています。
玄関へは、ほんの1メートルか2メートルほどだったかもしれません。保育園に通う子どもにはそれでも立派な道になるんですねぇ(笑)
真っ直ぐが家の玄関で、ガラガラガラーっと開ける引き戸です。
平屋の間取りは
6畳の和室、
6畳の和室、
4畳半の食事室、
台所は4畳半ほどの土間、
トイレが3畳ほど、
隠れ部屋が3畳ほど。
はっきりと覚えていないけど、こんな感じだったと思います。
子供なので3畳の部屋でも、ずいぶん広く感じたものです。
いやもしかして、トイレは3畳もなかったのかもしれません。
また、当時は、「本間(ほんま)」と言って、1畳の大きさが今の1畳と比べると大きかったというのもあります。
呼称 | 1畳の大きさ(㎝) | 3畳の大きさ(㎝) | 6畳の大きさ(㎝) |
本間 | 95.5×191 | 191×286 | 386×382 |
江戸間 | 88×176 | 176×261 | 261×352 |
中京間 | 91×182 | 182×273 | 273×364 |
畳の主な大きさとして、本間・江戸間・中京間があります。
本間=関西を中心に使われていた畳のサイズ。京間や関西間ともいう。安土桃山時代から使われていました。
江戸間=現在、全国的に使われている畳のサイズ。関東間とも呼ばれる。
中京間=主に愛知・岐阜の中京地方で使用されるほか、福島・山形・岩手の東北地方の一部、北陸地方の一部、沖縄・奄美大島で使用されている。
2、隠し部屋とは
隠し部屋って何ですか?っていう疑問が浮かび上がって来ますね^^
私が隠し部屋の存在を知ったのは、保育園に通っているころです。
ある日ふと昼寝から目覚めると、どっからか話声がかすかに聞こえてきましたけど、家中どこにも誰もいません。
おかしいなー。確かにどこかから声が聞こえた、そうおもって、寝起きでぼーっとするままにしていたところ、ぎいーっと音がして、音がする方を見ると、
えーっと!姉さんが出てきた。
あはははっ!っていう感じ。
見つかった、そのままにしたままの開いた戸のところに行き、中をいそいそとのぞいてみると、細長い畳のお部屋がありました。
なぜか明るくまぶしかったー。
そして、中に母さんも姉さんもいた!
(なんか一人取り残された感じでグスッ)
もうバレたんだから!だから、笑っていたけど。
3畳ほどの畳敷の部屋でした。部屋の入口の戸は、大人がかがんで入らないといけないような小さな木の戸です。小人のドア。
子供の私でも、ややかがんで、頭を打たないように、気を付けて入らなければなりません。
部屋がまぶしかったのは。
その部屋は、南に面していて、その南側は、ほとんど全面ガラス窓になっていたからです。
今で言うサンルームですかね。多少図が下手ですが、
そのガラス戸が、はたして開くのか、はめごろし窓(FIX窓)だったのかはわかりません。
南の採光が、ガラス窓からいっぱいに降り注いでいました。だからまぶしい。
透明のガラス窓は、足元までありましたから、もしも、南側に家が建っていたら、部屋の中はまる見えだったことになります。
しかし、一軒家だったので、そんな心配はありません。
南側にあるのは、一面に畑が広がっていただけなんです。
そして、この家は、石垣(?)の上に建っていて、畑の高さからは、ずっと高い位置にありました。
ですから、もし畑で作業する人がいても、容易にガラス窓の中をのぞくことが出来なかったわけです。
その部屋からの眺めは実によかったです。
はるか向こうまで畑の緑が広がっていたからです。その先は海にそそぐ川の堤防と空くらい。
畑は多分、葉っぱの大きなレンコンの畑だったような気がしますが。
家に通じる一本道の左横は、同じく葉っぱの大きなレンコンの畑だったと思います。
雨のパラパラ降ってくる日は、学校帰りにその葉っぱを傘代わりにして、帰ったこともあります^^
なんてね。遊びですけど。(ウソっ) 完全には隠れませんけど。
この部屋は畳敷なので、みんな寝そべったり、足を伸ばしたりして、たわいもない話をしたり、昼寝をしたりしたものです。
それでも、3人も入れば、なんとなく息苦しくなります。部屋が小さいからか、窓が締め切りだったから?だからかもしれません。
窓の下には、何メートルか下にすぐ畑が広がっています。断崖の下は畑なんです。
だから、泥棒が入ろうとしても入れません。
そんなこんなで、ときどき昼寝から目を覚ました時、家に誰もいないことがありましたが、その疑問も解決したわけです。
こんなサンルームのような部屋の存在を知ってからは、私もみんなのたまり場の仲間入りをしたわけです。チャンチャン!です。
トイレの間取りが広い!
子供のころに住んでいた家には、いろんな特徴がありました。
その特徴のうちの一つは、トイレの面積が大きかったことです。
トイレの間取りは広くて便器が2つ
トイレのドアを開けると入ってすぐの右手に手洗いのシンクがあります。
そのシンクの奥に、男性用の小便器がありました。
これなんだろうと、子供のとき思っていましたが疑問は解決しないままその家を引っ越しました。
自分が使うものではないので、素通りではっきり言って興味がなかったんですよね。
そして、男性用小便器の奥に、トイレがありました。
トイレは一番奥です。
ざっと、全部で約3畳ほどでしょうか。(たぶんたぶん)
昔の一畳って、今の一畳よりも広かったんです。
なので、2畳くらいだったのかなぁ・・・。??
まっ、とにかくトイレは広かったんですー。
昔のトイレっておつりのくるトイレって知ってます?
でも、昔のトイレなので、おつりのくるトイレだったんです(>_<)
おつりって言っても若い人は何のことか分からないと思います。
昔は汲み取り式トイレと言って、トイレの汚物を定期的に「くみ取り車」がやってきて、直接トイレからバキュームでくみ取って帰ってくれるんです。
汚い話で恐縮ですが、トイレで“大”をすると、ポっちゃーんと下にたまっている汚物の上にそのまま真っ逆さまに落ちるんです。ヘタすると、水たまりに小石を投げた時、水しぶきが上がるように、汚物が跳ね返ってきたりするんですよね。(うそでしょ!)
いやそれで汚れたなんてことは実際ないんですけどね。
おつりのくるトイレっていうのはそういうことなんです。
昔のトイレはどこのご家庭もそのような、「おつりのくるトイレ」だったんですよ。
子供のころは、そのおつりのくるトイレを"またぐ″のがこわくて仕方なかったです。
なぜなら、トイレは板間の仕様で、用を足すところが、長方形に空いているだけだから。大人なら何ともない空間が、子供だから、すごく大きくて、「もしやここから下に落ちたらやばいことになる」といつもおっかなかったわけです。
そんなトイレの思い出は今では懐かしい、よき思い出となってます。
トイレの広さが理想的!
家が小さい割にトイレの占める面積って大きかったのではないかと思います。
今、一般的に、トイレって一畳くらいでしょうか。
大人が一人入るとちょうど埋まるくらいの大きさです。
そうそれに比べると、トイレは理想的に広かったです。
下に落ちないか心配するようなトイレでしたが、広さは3人でも4人でも入れるような大きさのトイレでした。まさにこれが理想的!(私の)
食事するダイニングは掘りごたつ
食事する部屋は、これまた昔にしては合理的で理想的だったと思います。
今は食事する部屋と台所が1つの部屋になっていたり、隣どうしの部屋でつながっていたりしていることが多いですね。
わたしの子供のころのおうちは、食事する部屋と台所とは完全分離型になっていました。
食事する部屋は四角形で、だいたい4畳半だったと思います。
部屋の真ん中に掘りごたつになった食事台があって、食事時になると、そこによいしょっと腰かけて座ります。
夏はそのまま板の間に、冬は座布団をしいたりして、座ります。
冬には、掘りごたつの下に練炭を入れて、暖が取れるようにもなっていました。
掘りごたつの食卓だから部屋が広くみえる
堀りごたつなので、テーブルと椅子のような高さがあるわけではなく、大人の膝くらいの高さに食事台があるので、部屋が広く感じます。
そして、床に腰かけて座るので、足がとっても楽です。子供だから関係ないです。
冬の寒い日は、練炭で火を起こして入れておくと、足元がとってもあったかいのです。
練炭を置く場所は、一段低くなっていて、足に当たることもなく決して危なくなかったです。
四畳半の部屋に四角形の食事台があって、ほかは食器を入れる棚と小さな棚があるだけの質素な部屋だったと思います。
でもこの部屋は、とっても合理的でした。
四畳半という決して広くない部屋が、この堀こたつの食事台のおかげで大きく感じられましたしね。まさに!
掘りごたつなら小スペースでも活かせる
掘りごたつなら、椅子を置くスペースも要らないし、夏は板間の床に直接座ればいいだけで、冬は座布団を敷けばよいだけですからね。
まさに理想的な作りだったんですねぇ。
(お年寄りはよいしょっと腰かけるのがたいへんかもです(>_<) いすの方がマシ?)
台所はセメント土間つくり
台所は、この食事室から一段の段差をおりて、小さな土間の後ろのドアをガラガラっと開けたところにありました。
台所の床は板の間ではなく、コンクリートみたいな床で、靴を履いて食事を作ります。
だから冬はとっても寒かったと思います。
母は一旦下に降りて靴を履いて、食事を作ったり、子供の私たちは下に降りて靴を履いて、洗面台で顔を洗ったりしていました。
なので、食事を作るのには不便でしたし、まあ当時はそれが当たり前だったんです。
食事を作って、できたものは鍋で運んで、食卓に運ばなければならなかったからです。
土間には台所と洗面台がありました。
勝手口は、家の西側にある畑に、台所の土間からそのまま靴のまんまで外に出ることができます。
勝手口から外に出ると、昔は山羊を飼っていたり、うさぎがいたりしました。
しかしいつの間にかいなくなっていました。・・・。(怖)
勝手口を出て西側は、海がある方角です。
勝手口の海との間の西側の畑にはヒマワリが植わっていて、夏には背の高いヒマワリが、一列にずらっと並んできれいに咲いていました。
ヒマワリの種って食べられるんですよ。
ヒマワリの種を取って、炒ったものをよく食べさせてもらいました。
ヒマワリの花弁の内側の丸い部分の中は、ほとんど種になっていて、種がいっぱいあります。どういう風にしてたねを取るのかは、わかりませんでしたが、味はとってもおいしかったです。
今は食べたりしませんが、食べれると思います。たぶん
試しにしてみてはいませんが、子供のころのことを思い出しました^^
子供のころの家・超理想的な間取り図公開
だいたいこんな感じだったのかな!?を間取り図で表したものです。
玄関前の6畳間は、もしかすると8畳間だったかもしれないし、トイレや隠し部屋はもっと大きかったのかもしれません。汗
まとめ
記憶にあったことをまとめてみたらこんな感じ!これが私の始まりです。
こんな平家があったらもう一度住んでみたいなと思います。
ただし、間取りの配置を変えて、フローリングにして、トイレはもう少し小さくてもいいかな、とか考えるとキリがなくて、いろいろな部分を現代風に修正は必要ですけどね。
おもしろい!隠し部屋があった
平屋全体の大きさに比べてトイレが広い
食卓が掘りごたつでおもしろいし